月尾島
月見島はその名の通り「月の尻尾の島」という意味だ。島の形がまるで半月の尻尾のように長く曲がっているので、こう呼ばれるようになった。元々この島は草茫の離島だった。今はその仲間の海辺を陸地と触れ合うよう幅広く埋め立てて、名ばかり「島」という字がついているが陸地と同じだ。月尾島が遊園地として開発されたのはかなり昔のことだ。1918年、仁川府はここを観光地として開発することに指定した後、潮湯と海水浴場、遊技場、娯楽場、植物園、竜宮閣などの施設を造成し、夏には全国各地から多くの人達が集まって来て避暑を楽しんだりした。しかし6.25戦争に遭いながら一変した。

<道案内>
・ソウルから
大衆交通を利用して行くならば地下鉄に乗るのが最も簡単で早い。京仁電鉄の終点である仁川駅からバスに乗れば終点が月尾島だ。ソウル駅から仁川駅まで1時間。仁川駅から月尾島までは10分かかる。車で行くならば京仁高速道路の終点から月尾島方面に標識通り行けば15分、第2京仁高速道路の終点から月尾方向に標識通りに行けば20分かかる。
・仁川から
月尾島方面に行くバスは座席指定バスと2、15、23番の市内バスがある。バスはすべて仁川駅前に停車するので、電車を利用するのが簡単で早い。

月尾山
月尾山に上る道はまるで南山の上る道のように静かな小道だ。よく整えられたこの道は傾斜もゆるやかで誰もが簡単に上ることができる。頂上に向かって上るほど月尾島の文化通りや遊園地、刺し身屋などが小さくなっていく。ようやく頂上。四方を見回すと近くには仁川港に出入りする旅客船や貨物を満載した貨物船が見えるし、遠くには仁川国際空港のどたんばの建設工事が真最中の永宗島が見える。もしも天気が良い日なならば北の地も見えそうだ。月尾山の大きさは自由公園の9倍。その間一般人の出入りが統制されていた為に破壊されていない原生林を保っている。頂上までは歩いて15分なら足りる。そこには仁川の真骨頂がある。
文化通り
文化通りを歩いてみるとこの世の全ての浪漫に出遭える。1kmに満たない距離(840m)は、出会い・交換の場、演出の場、文化芸術の場、風物の場などそれなりに意味のある区間に分かれている。右側には胸深い海が、左側にはカフェや刺し身屋が軒を並べるこの通りでは、いつも思いもよらない即席公演が開かれて皆を楽しませてくれる。パフォーマンスでもいいし、のど自慢でもかまわない。若者達はここで音楽を大きくかけたまま、普段から磨いた踊りの実力を自慢したり、練習三昧にあけくれたりもする。この通りの主人公は決められていない。ようやく恋愛を始めようとする若者達、久しぶりにあって旧交を温める同窓達、そしてただ海を眺めたくてやって来た家族達……。私もまた主人公になる。
野外舞台
文化通りが終る地点に野外舞台がある。こぢんまりとしたこの舞台は海側に背を向けていて、踊りでも演劇でもこの舞台に上がる全ての公演の背景画面に無条件海がなてくれる。それは時々刻々と色彩を変え同じ公演が開かれても、夕暮れ時か真昼間によって感動が異なる。特別にこの舞台の主人公が決められているわけではない。通り過ぎながら場所が空いたら、舞台に上がって踊りを踊ってもよく歌を歌ってもかまわない。そうすれば彼は主人公になり、ながめる人は観客となるのだ。
親水空間
親水空間は海と握手をする所だ。海に通じる道ができていて、海水に手を浸してみることができる。でこぼこの石ころがなかなか見事に並び、赤い色彩のミニ灯台も立っていて雰囲気を盛り上げてくれる。たとえ小さくてもかなり形のいい波が「ザーザー」と寄せてきて趣を出してくれる。岩の上に座って眺めると前方の海に遊泳している遊覧船も見えるし、永宗島と月尾島を往復するヨンジュ号の船尾も見える。いつでもここに座って海に見惚れてもいいが、どうせなら夕暮れ時に岩一つを占拠して座ってみることだ。
遊園地
月尾島は乗り物からあふれ出る若者達の力強い歓声でいつも活気に満ちている。特に乗り物ごとにカッコよくて話上手なDJ達がいて、興をめいっぱい高めてくれる。彼等はギャグマンも顔負けしそうな面白い声でその一帯を笑いの渦へと巻き込んでいく。直接乗り物に乗っている人達ばかりか、足を止めて側で見ている人達も顔に笑みを浮かべている。
<ボーナス>
乗り物施設をより効果的に利用しようとするならば、自由利用券を買うといい。3回乗れる利用券は大人6000ウォン、子供4000ウォンだ。1回当りの利用料は2500ウォン(子供は2000ウォン)。団体の場合は25人から30%割引となる。
カフェ街
月尾島にあるカフェはみんな、海を胸に抱けるほど窓が大きくて広い。海に向い腕を広げて立っているそこは海を観賞するには絶好の場所だ。恋人同士で雰囲気をつかむのにも申し分ない所だ。最古参株のカフェ「イェージョン」をはじめとして、文化通りには約30軒ほどの店が並んでカフェ街をなしている。大部分は2階にあって視界が広い。月尾島がこれほど有名になったのは、ひょっとするとこのカフェの独特な雰囲気の功績が大きいかもしれない。香り高いコーヒーはもちろん、独特なソースがそえられたステーキや美味しいワインも味わえる。
愛の遊覧船
華麗な照明を満艦飾に飾り雰囲気のある音楽を流している「愛の遊覧船」に乗るのは、月尾島旅行では欠かせない醍醐味だ。レストラン遊覧船のコスモス号やハーモーニー号の2隻が90分間隔で代りばんこに動いている。船着場を出発した船は芍薬島の前まで行き、永宗島、八尾島、仁川港などが見える海を90分ほど散策する。レストラン船のコスモス号の場合、1階では生音楽が流れ、2階ではトンカツをはじめとする各種の洋食とコーヒー、簡単な飲料水などを売る洋食堂だ。外国人歌手の楽しいショーも観覧できる。
仁川上陸作戦第一地点
韓国戦争がたけなわだった1950年9月15日明け方6時30分。米国の海兵第5連隊第3大隊が艦砲射撃や空中砲撃の援護を受けながら<グリンビーチ>と呼ばれる月尾島に上陸した。午後5時35分には<レッドビーチ>と呼ばれる月尾島北側の防波堤に上陸した。大逆転ドラマだった。不利だった戦況は完全に逆転し、仁川上陸作戦は完璧に成功した作戦として、世界戦争史に長く残るようになった。戦争が起きてから丁度30年経った年の1980年9月15日、この作戦の成功を記念して第一上陸地点の月尾島に碑石を立てた。月尾島の文化通り入り口(グリーンビーチ)と、仁川駅から月尾島へ行く道にある大韓製粉後(レッドビーチ)に立てられている。
落日風景
がむしゃらに燃え上がるかのように勢いのよかった太陽は、だんだんと海の中に沈んで行きながら最後の力をふりしぼって燃え上がっている。海が紅色に染まれば船も島もそして恋人達の顔も真赤に染まる。すっかり蒸れてはらわたを溶かした太陽は、ある瞬間にどぶんと自分の棲家に姿を隠してしまう。しかしそれでも暫くは太陽が残していった残映に赤い。月尾島の夕焼けは、まるで生まれて初めて恋に落ちた思春期の男女の初恋のように情熱的だ。その中に溺れると誰もが一遍の愛の叙事詩の主人公となる。カフェに座っていようと、海辺に座っていようと、あるいは手すりに寄り掛かっていようと、誰もが最高の夕日を観賞できる。
<道案内>
月尾島の船着場から永宗島行きの船に乗り15分ほど航海すると永宗島に着く。仁川国際空港が建設真最中なので、そこを周って見るのも意味があるだろう。そこから仁川国際空港高速道路を20分ほど走ると竜遊島だ。竜遊島に行く途中で徳橋海岸で下りると舞衣島に行ける。自由公園は月尾旅行を終えて家に帰る途中に立ち寄るといい。月尾島から10分の距離だ。中国人街もすぐ側だ。沿岸埠頭は月尾島から20分距離。
沿岸埠頭
人が足を踏み入れていない無人島から、都市に負けないくらいの雰囲気を兼ね備えた島まで、仁川には大きいものから小さい島までたくさんある。沿岸埠頭旅客ターミナルは陸地とこれらの島を結ぶ唯一の通路だ。ターミナル待合室の中は、いつも未知の島へと向かう人達のときめきで一杯だ。目的地や時間を知らせてくれる電光板の文字のように、私達の心もいたずらにそわそわする。白?島、延坪島、徳積島、紫月島、伊作島、昇鳳島、霊興島、舞衣島、江華草芝里、六島、風島、蘭芝島そして遠く済州島まで、旅客ターミナルに入るとまるでたった今この島に到着したかのように、海の臭いがプーンとしてくる。

<道案内>
・ソウルから
京仁高速道路や第2京仁高速道路で終点まで行き、開港百周年記念塔を過ぎ海洋警察庁方面に続けて直進する。水協中央会の看板が見える四つ角で左折し、3百mほど走った右側に見えるのが海で、この一帯が沿岸埠頭だ。
・仁川から
大衆交通を利用すれば12、14、24、33、36、64番が行く。

総合魚市場・刺身屋通り
この市場は四季を通して賑っている。少しでも新鮮で少しでも安く魚を買おうという人達が訪れる為だ。クモの巣のようにできた複雑な通路にそって、各種の活魚の刺し身や塩辛を売る店が列をなしている。店舗数だけでも少なくとも500店余り。ここで働く人だけでも1000人になる。大部分その日に仁川沿岸の海で捕ってきたばかりのピンピンしたものなので、ゴムだらいの中で水を撥ね上げながら新鮮さを誇示している。普通の刺し身屋ならば少なくとも5〜6万ウォンはするヒラメ1kgほどのものが、なんと1万ウォン代ならば手に入る。その場で直接刺し身にさばいてくれるので、包装してもらい家で食べてもいいだろう。
仁川で一番安い値段で、一番美味しい刺し身を食べられる所、それが沿岸埠頭だ。総合魚市場を始めとして、新しく造成されている国際旅客ターミナル前の通りには、大小の刺し身屋が巨大な帯を成している。披露宴や還暦祝いを披いてもよいほど大きくて広い所から、重要なお客の接待に適当なこぢんまりとした所まで整然と並んでいる。また沿岸埠頭の入り口に最近オープンした「沿岸刺し身プラザ」は、400人余りが同時に食事ができる大型刺し身センターとして人気を集めている。何よりもこれらの刺し身屋は、味でも価格面でも信頼がおける。仁川近海でその日に捕れたものが、その都度お客の前に出される為新鮮度では安心がおける。刺し身あえでも刺し身丼でもメウンタンでも、どんな料理でも沿岸埠頭で食べる味には特別なものがある。

 

 

南港埠頭
仁川近海一帯は「黄金の漁場」という賛辞が恥ずかしくないほどの海釣りの天国だ。ポイントは徳積島や風島、昇鳳島、紫月島、伊作島、六島、三島、蒼島、埠島、長安嶼、白岩、霊興島をすべて合せた所。南港埠頭がその海釣りの船たちが出港する所。個人的に出船するのはもちろん、船上で海上セミナーを開いたり、キャンプをする所、海洋スポーツを斡旋するなど色々な目的で船舶を貸したりする。どこに舳先を向けても、メバル、ヒラメ、ホンベラ、スズキがざらだ。捕まえた魚をその場で刺し身にもさばいてくれるし、メウンタンも煮てくれる。
<ボーナス>
開港百周年記念塔から沿岸埠頭方面に1kmちょっと行き、右側にSK冷蔵倉庫が見えてきたらその向い側が南港埠頭だ。一回出航するのに個人当りの料金は5万ウォン程度、団体ならば12人乗り基準で平日は60万ウォン、土・日は75万ウォンだ。
沿岸(888-2350) 泰園(887-8877) 白馬・フェニックス(887-8181) 国際(888-7977) 現代遊船(885-0001〜3) 浩津(888-0181〜2) 南港遊船(883-6627〜8) シンナラ(882-0141) 仁川(881-0156)
海洋広場
沿岸埠頭で海を眺めるのに一番良い場所は海洋広場だ。広場のすぐ前には数十隻の船が停泊していて、行ったり来たりする船を見送ったり出迎えたりすることもできる。木製のベンチはこうした風景を眺めているのにうってつけの風情がある。幸いにも夕刻近くになったら、彫刻作品のように凝った街灯に一つ二つと灯りが灯り、停泊中の船の碇ごしに真赤な夕日が沈む恍惣境を目撃する幸運をお負けに享受できるだろう。沿岸埠頭の落日はなぜか、より多くの一日の事情を秘めているような気がする。
開港百周年記念塔
1883年1月1日仁川港の開港で我が国はおびただしい開放の波に巻き込まれた。それから丁度100年が流れた1983年、開港100周年を記念して仁川港が我が国の近代化に尽くしてきた功を称える趣旨で塔を建てた。これからも繁栄し続ける仁川港の未来が永遠であれという意味も込められている。塔の高さは100尺(33.3m)、幅は2m、広さは9mだ。空に向い手を高く揚げて立つ女人像は希望と前進を、船に乗っている12人の市民像は、荒波を乗り越えて力強く仁川港に入港する姿を表している。
海水湯
かなり昔から人々が海水浴で疾病を予防し健康を取り戻してきた。海水には100種類を超えるミネラルが含有されていて体に良い為だ。沿岸埠頭にある海水湯はこの原理を利用して、地下200mのきれいな海水を風呂の湯に使っている。水質が澄んできれいなことでは、沿岸埠頭の海水湯についてくるものはない。特に婦人病や成人病、肥満、水虫、湿疹、関節炎高血圧、痔、産後処理などに効果的であり、皮膚美容にも良いことで知られている。これらの風呂はそれなりにハーブ湯、人参湯、昆布湯、ヨモギ湯、松の葉湯、コーヒー湯、玉石サウナ、炭サウナなど特色のある施設を作っていて週末には首都圏の市民達がたくさん訪れる。

<ボーナス>
沿岸埠頭だけでも10ヶ所あがある。高麗海水湯(881-8218) 営殿海水湯(888-3444) 南海海水湯(884-0008) 大洋海水湯(888-8383) 明津海水湯(883-0758) 西海海水湯(888-2990) 月尾島海水湯(761-1091) 柳林海水温泉湯(882-2161) 隆昌シーランド(888-5105) ヘスピア(886-4364)・料金は3500ウォンから6000ウォン・営業時間は普通AM5:00〜PM8:00まで・定休日は店ごとに異なるので、事前に電話確認するのがよいだろう。

遊覧船飛行
親水空間のすぐ横の遊覧船埠頭は、95年に現在の旅客船ターミナルが新築移転されるまでその役割を代行していた所だ。現在ここから出発する船に乗ると仁川近海をくまなく遊覧することができる。沿岸埠頭を出発した船は仁川港閘門に行き、永宗島、新空港建設現場が見える所を周り、外航船停泊地、八尾島近海、LNG引受基地、松島近海、埠頭施設を周り再び沿岸埠頭に戻って来る。こうして1時間、海の上を遊覧すると全く違う仁川の姿を見ることができる。
<ボーナス>
午前11時30分から午後18時30分まで、1時間おきに運行される。料金は大人7000ウォン、子供3500ウォン。
仁川港内港
1883年に開港して以来仁川港は、我が国に西欧の文物を受け入れる窓口の役割をしてきた。現在、仁川港は同時に45隻の船舶が接岸できる国際港に発展した。貨物機能により8ヶ所の埠頭に分かれ運営されるが、仁川港の核心港湾施設である内港と、西海岸一帯の島と中国を行き来する旅客船用港湾の沿岸港がある。内港を通じて北ヨーロッパや米国、東南アジアなど全世界に通じる貿易が行われる。ここを通じて自動車も輸出され、穀物も輸入される。
仁川港閘門
仁川港は東洋最初の閘門式ドックだ。閘門は仁川海岸の潮水干満差を克服して、大型船舶が接岸できるよう造られた船舶達の門だ。おかげで潮水に関係なく最大5万トン級の大型船舶が自由に往来できる。市民達もいつでも閘門施設を見学できる。事前に電話予約をすれば車両に乗り、埠頭から緑化地域〜閘門〜管制塔に至る施設を見学できる。毎年海の日の行事には、直接船に乗って見学できる機会もある。 問合せ:海運港湾庁港湾運営課032-880-6114
国際旅客ターミナル
ターミナルから出発する旅客は大部分が中国行きだ。中国と仁川港を往復する船は、仁川港を圧倒するほど大きいので遠くからでも目に付く。ターミナルは一般旅客達や行商人達の荷物でいつも慌ただしくごちゃごちゃとしている。ターミナルの中には中国語とハングルが一緒に書かれた看板がやたら多くて、まるで中国に来たような錯覚すら感じさせられる。天津を始めとして威海、青島、大連、上海、丹東などへ運行する。2000年10月に沿岸埠頭に國際旅客ターミナルが竣工し運営されている。 <ボーナス>
仁川〜天津(032-887-3964)
仁川〜威湾(032-886-6171)
仁川〜青島(032-886-6171)
仁川〜大連(032-888-2611)
仁川〜上海(032-886-9090)
仁川〜丹東(032-881-2255)
ロデオ通り
格式ばった場所で着る本格的な正装から、お洒落!という言葉を聞けるほど飛んでるスタイルのファッションまで、新浦洞ファッション通りに行けば出会えない流行はない。洋服はもちろん基本、靴、アクセサリー、カバン、美容室までそして高級ブランドからカジュアル、縫製専門店までがこの通りにぎっしりと占拠している。通りを歩いてみると最近の流行が一目でわかる。
<道案内>
ソウルから:京仁電鉄に乗り東仁川駅で下ればよい。仁川市内からは2、15、23、45播のバスに乗れば、東仁川駅や仁川駅を通る。
カフェ通り、食べ物小路
欲しい物は何でも新浦市場へ行けば求めることができる。精米所、金物屋、洋服屋、布団屋、食堂、コンガルパン屋、果物屋……。新浦ヤンニョントンタクや新浦スンデ、チョルミョン、カルグックスなどなど、仁川を代表する食べ物を味わえる店も市場の中にひしめいている。市場のあちらこちらにはロシアやフィリピンなどの外国人を相手にする店も多く、異国的な風情を味わうこともできる。
新浦市場
欲しい物は何でも新浦市場へ行けば求めることができる。精米所、金物屋、洋服屋、布団屋、食堂、コンガルパン屋、果物屋……。新浦ヤンニョントンタクや新浦スンデ、チョルミョン、カルグックスなどなど、仁川を代表する食べ物を味わえる店も市場の中にひしめいている。市場のあちらこちらにはロシアやフィリピンなどの外国人を相手にする店も多く、異国的な風情を味わうこともできる。
地下商店
どんなに方向感覚のいい人でも道に迷いやすいのが、東仁川駅の地下から始まる地下商店街だ。クモの巣のように四方に走る地下の路地は何筋にも分かれている。服や靴、ファッションアクセサリー、眼鏡屋、宝石店などほとんどの店がみんな揃っていて、広々とした地下デパートと言ってもよい。店舗数だけでも千店余り。特に東仁川駅から新浦洞に至る地下商店街は、終わりの無い地下街だ。アイショッピングをしながら最後まで歩こうとすれば1時間でも足りないだろう。 <見 所>
仁川デパートは去る86年に設立され、89年にオープンにオープンした仁川の地元デパートだ。地下1階は食品売り場、1階は雑貨日用品、2階は婦人服、3階は紳士・子供服、4階は生活用品、5階は家電製品売り場となっている。(問合せ:032-763-9211)東仁川駅地下と連結している。
ニューコアタウンは地下3階、地上9階規模のショッピングタウンだ。キムズクラブや中華、ブッフェ食堂、スポーツクラブなどがある。東仁川駅からは徒歩で5分の距離だ。(問合せ:032-763-5000) 小劇場ドルチェは中区文化の宝石のような存在だ。全国で最も古い小劇場のドルチェは、去る1979年にパントマイム俳優の崔圭浩さんが設立し、1984年には劇団マイムを創立した。
仁川演劇の母体として胎動したドルチェは、現在マイム専門小劇場として活動中だ。毎年仁川で「CLOWNマイム祭」が開かれる。東仁川駅から徒歩10分かかる。(問合せ:032-772-7361)
我が国最初のチャジャンミョン通り
どんなに方向感覚のいい人でも道に迷いやすいのが、東仁川駅の地下から始まる地下商店街だ。クモの巣のように四方に走る地下の路地は何筋にも分かれている。服や靴、ファッションアクセサリー、眼鏡屋、宝石店などほとんどの店がみんな揃っていて、広々とした地下デパートと言ってもよい。店舗数だけでも千店余り。特に東仁川駅から新浦洞に至る地下商店街は、終わりの無い地下街だ。アイショッピングをしながら最後まで歩こうとすれば1時間でも足りないだろう。 <道案内>
仁川駅向い側の派出所前の坂道を上ると、右側に位置を占めている。
北京飯店
チャイナタウンには入り口が特異な構造の中国式建築物が多く見られる。映画「北京飯店」の撮影舞台になった建物もやはり同じだ。独特な味が感じられる。元々漢方医院の跡だったここは、撮影が終った後は残念ながらいつも門を固く閉ざしている。今でも「北京飯店」の看板を掛けていて、想像でだけ北京飯店の情趣を描いてみるだけだ。

華僑中山中・高

1884年の清国領事館は清国人の集団居住地を市内が一望できる最も高い場所に定めた。領事館が撤収したのはすでに昔、今はこの一帯に住む華僑の学生達の学校になった。中国風がぷんと匂って来るような建物は。何度も補修を重ねてはいるが中国式建築の特徴を味わうことができる。中国語と韓国語が適当に混ざり合う、学生達のおしゃべりの中に浸ってみるのも新鮮な気分だ。
100年伝統の脈
指先でポンと突っつくとポント凹むパンが中国固有のコンガルパンだ。華僑学校のすぐ前にある復来春は、1900年代初めからここに根を張りおおよそ100年代初めからここに根を張りおおよそ100年近い歳月を引き継いできている。主人の曲海玉さんのお祖父さんが1900年代初めに店を開き、現在は孫の彼が三代目。夫人と一緒にコンガルパンを作っている。コンガルパンをはじめ月餅や中国茶、祭器のような中国の雑貨も買い求めることができる。

 

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仁川国際空港
仁川国際空港は永宗島が生んだ世界的な財産だ。永宗島などに4つの島を塞いで造った1700万坪の敷地に建設される海上空港だ。92年に最初のシャベルを入れてからほぼ10有余年に渡る大工事の末、初めての翼を広げる瞬間、仁川国際空港は東北アジアのハブ空港として新しく生まれる。4000メートル級滑走路2本や旅客ターミナル、交通センターなどの施設を兼ね備えて先ず第1段階として2001年3月に開港された。

<道案内>
・仁川駅から月尾島行のバスに乗り、月尾船着場で永宗島行のカーフェリーに乗ればよい。(所要時間15分)
・京仁高速道路の西仁川インターチェンジを下りて、栗島船着場からカーフェリーに乗ってもよい。(所要時間20分)

仁川国際空港広報館・展望台
2001年3月に開港された世界的な空港を見て回るのに胸迫る感動が伴う。52mの高さや展望台に上ると、すでに造成が終わった旅客ターミナルや管制塔などの各種の施設が人目で見渡せる。広報館ではシュミレーションや映像スライドなどを通して、空港の姿を総合的に見ることができる。広報館や展望台の上ると永宗島の未来が一望できる。
カーフェリーに車を載せて
ウルバスのように頻繁に行き来するヨンジュ号は、陸地と永宗島を結ぶ唯一の綱だ。この船は一度に100台余り車を載せられるほど大きいので、大部分の人が車で行こうと月尾島から車に乗車したまま列を作らなければならない。船首が永宗島側に向くやいなやカモメもついて来る。こうして10分、短い時間であるが海風に打たれるには十分な距離だ。船上から眺める永宗島は、いつもお客を迎えるのに忙しいお婆さんのような顔をしている。
問合せ:ヨンジュ海運032-762-8880〜2
永宗船着場(クウップ渡し)
永宗島に到着するやいなや真っ先に目に入る珍風景は魚市場だ。大きなゴムだらいに入ったヒラメやメバル、カレイ、カニ、ナマコ、ホヤなどは全て仁川近海でその日に捕れた新鮮なもの。適当なものを選ぶとすぐにその場で刺し身にして食べられるようにしてくれる。店で案内する刺し身屋に行き、野菜代とメウンタンの材料代を払えば刺し身が食べられる。中位のヒラメやメバルに、メウンタンに入れる貝やナマコなどを合せて2万ウォンぐらいならば十分に買える。
竜宮寺
竜宮寺へと向う閑散とした小道は思索の森だ。日光が一筋も入らないほど鬱蒼と木々の生い茂った小道を約15分ほど歩いて行くと、絵に描いたように山の中腹に寺が抱かれている。規模は非常に小さいが、新羅時代の名僧元暁大師がこの寺を創建したというから、おおよそ1300年の歴史をもつ由緒ある寺だ。興宣大院君もこの寺に頻繁に通いながら仏像に念願成就を祈とうし、名前も竜宮寺と変えた。彼が書いた直筆の扁額が今も掛かっている。寺の前の欅の木の前に座って読経の声を聞いていると、時間がしばし止まっているかのようだ。
竜宮寺の欅の大木
寺の前に仲良く立っているニ株の欅は、まるで父母のように寺を包み込んでいる。木の周りが5.63m、高さが20mもある巨大な欅の大木を人々はお爺さん、お婆さん欅と呼んでいる。お爺さんの木が不思議にもお婆さんの木の方にだけ枝を伸ばしていて、昔、子供を産めない女性が竜宮寺の竜皇閣にある薬水(湧き水)を飲んで、お爺さんの木に祈願すれば子供が産れたという伝説が伝えられている。寺の年齢と同じ樹齢1300年だ。
白雲山
さほど高くもなくさほど険しくもない白雲山を訪れる人達が後を絶たない。山頂が256m、白雲山の入り口から頂上を廻って下りて来るのに1時間半なら十分だ。頂上に立って見下ろすと、点々と散らばる家々や竜宮寺が見えるし、仁川国際空港建設現場も一望できる。永宗洞事務所から登り始めて、またその道を下りて来るのが最良のコースだ。

 

問合せ:032-762-1264

青少年海洋探求学習場
去る84年に開場したここは学習室、討議室、キャンプ場、運動場、シャワー室などの附帯施設を備えている。潮汐干満の差が4m以上もできるうえに、水がひくと3〜4kmの干潟の生態系や潮間帯(満潮時の海岸線と干潮時の海岸線の間の部分)の生物などを観察するのにはまたとない所だ。また、数千数万年の間波によって形成された海岸の絶壁や丘陵地ではハマヒルガオ、ヒメジョオン、月見草などの島に生殖する植物の採集も簡単にできる。この他にも科学探求遊び、科学クイズ遊びなどの関連行事もできる。海洋探求学習は毎年5月1日から10月31日まで、小中高生を対象に運営される。
西海岸ペヨンシングッ・デドングッ
西海岸ペヨンシングッとデドングッは、我が国の重要文化財(第82-ナ号)である。ペヨンシングッは西海岸地域一帯で、船主達が自分の船や船員達の安全と豊漁の幸運を祈願する豊漁祭で、巫女が儀式を管掌する。デドングッもトダングッと同じく祭儀形態をもつ豊漁祭の性格を帯びている。全て私たちの祖先の素朴な漁村生活の中で伝承された代表的な黄海文化だ。技能保持者は金錦花さんで毎年春と秋に定期的な公演をする。
乙旺海水浴場
遠い道をものともせずやって来て良かったと思える海だ。1.5kmにもなる長い海岸、潮が引いても干潟よりも固い砂場が表れて沖まで走ることができるそんな所、そのうえ早くから国民休養観光地として開発されたおかげで、便宜施設も完璧で施設の良い民泊も多い。特に夕暮れの乙旺海岸は全国でも最高の落日を観賞することができるポイントだ。毎年8月には海洋祭りが開催される。
<道案内>
永宗島の船着場から竜遊行(乙旺里)バスに乗ればよい。(所要時間30分)

問合せ:竜遊出張所、洞事務所・032-760-7612、7610
竜遊海岸
鬱蒼と茂る松林に隠れて竜遊海岸は道路側からはよく見えない。林をこえてこぢんまりと広がる海岸は、裸足で歩くのに適当な砂と玉砂利がほどよく混ざりあっている。波は大きくも小さくもない姿で陸地に寄せてくる。引き潮時には潮干狩りもできる。海岸の後ろ側に竜遊洞事務所があり、民泊があちらこちらにある。

問合せ:竜遊出張所、洞事務所・032-760-7612、7610
マシラン海岸
海岸道路が終る地点から始まる町が竜遊島徳橋町だ。入っていく道が狭い為ともすると見落としやすいので格別な注意が必要だ。町を過ぎると始まる小道は車から下りて歩いてみたくなるような松林の道だ。この道に沿って走ると左側に広闊といえるほど長い海岸が現れる。マシラン海岸だ。引き潮時には終りが見えないほどの長い干潟が広がって私達を驚かせる。車を浜辺に留められる砂丘や松林が生茂っていて、キャンプするのにもってこいだ。

問合せ:竜遊出張所、洞事務所・032-760-7612、7610
旺山海水浴場

乙旺里から峠を一つ越えればよいだけのわずか5分の距離にあっても、旺山海水浴場は全く雰囲気が違う。乙旺里が華やかな避暑を楽しみたい若者達に格好ならば、旺山はただの長閑な離村のような風景だ。ちょっと静かで水入らずの時間を過ごしたい家族や恋人達ならば旺山がよいだろう。民泊は海岸から少し離れている。広々とした海辺に砂浜が広々と広がっているので、キャンプをするのも一つの方法だ。

問合せ:竜遊出張所、洞事務所・032-760-7612、7610

亀岩
トンゲポグは旺山海水浴場から見える入り江だ。海辺の砂浜から入り江の方を眺めると、左側にまるで亀がペッタリとうつ伏せになっているような形の岩がある。亀の頭は延坪島方面を見ながら口を開いていて、シッポの部分はソップル村のサミョン派金海金氏一族が住んでいる村に向いている。
忠魂塔
閑寂とした旺山海水浴場でしばし厳粛になる必要がある。海岸の端の地点から山の中に50mほど入って行くと、右側に屹然と立っている一つの塔が見える。忠魂塔だ。1950年11月17日、平安北道に進撃した連合軍が中共軍の参戦により戦略的後退を強いられた時、各面の治安隊が力を合せて1950年12月22日に白馬隊を組織した。彼等は西海の島々を渡り歩きながらゲリラ戦を繰りひろげた末、北傀軍3000人射殺、中共軍捕虜600人、愛国青年2800人救出、同胞救出15000人など華々しい戦果をあげたが、味方の被害も大きかった。その時に犠牲になった552人の戦死者達の英霊を称える為に、終戦後の1953年10月13日に建立された。
竜遊3・1独立万歳運動記念碑
3.1運動の火の粉は竜遊島でも燃え上がった。当時南北里に住む趙明遠はソウルで開かれた3.1独立宣言式に参席した後、1919年3月23日に帰郷し村の青年の趙宗鶴、崔峰鶴、文武賢らに3.1万歳運動の消息を伝えた。彼らが中心となり血成団という秘密抗日紛争団体を結成し、1919年3月28日官庁里広場で大韓独立万歳運動を起した。この場所に住民150人も参席した。記念碑はその意味を称える為に1983年3月28日に建立された。竜遊中学校校門のすぐ横にある。
伝統韓屋(文化財資料第6号)
おおよそ一世紀が過ぎてもなお息づいている趙炳洙家屋は、歳月が過ぎるのをすっかり忘れてしまったようだ。1890年に建てられたからこの家の歳はもう110才。瓦屋根を載せ堂々とたっているこの瓦屋構造は、西海島地方で普通に見られる中房でなった典型的な中流家庭だ。¬字型の大門と母屋の2つの建物でできている。全体的な家の形はロ字型である。1997年7月市文化財に指定された。竜遊小学校付近にある。
飛浦将軍岩
現在は仁川国際空港建設で埋め立てられてしまったが、わずか5年前にしても永宗島と竜遊島の間には島と島を結ぶ4kmほどの連陸橋があった。その竜遊島側の橋の終り地点人の姿に似た岩がある。飛浦将軍岩だ。まるで将軍が海に向かい号令を掛けているような力強い姿だ。宣祖25年壬辰倭族たちが将軍岩の側で遊んでいたカモメ達を見て、勇猛な将軍と兵士に誤認して恐ろしくなって逃げる途中、満潮になり溺れ死んだという話が伝えられている。
ハナゲ海水浴場
ハナゲ海水浴場はセンクミ船着場から車で10分ほどで到着する。舞衣島で一番大きな干潟という意味のハナゲ海水浴場には、1km長さの海岸に小麦粉のように粒子の細かい砂が敷かれている。海辺の高床式バンガローは潮が満ちると、水上家屋のように浮かんでいるような異色の体験をすることができる。ハナゲ海水浴場に行くと遊びが多様になる。潮が満ちたら泳ぎ、潮が引けば潮干狩りをする。干潟を少し掘っただけでも潮吹きの白い身が口をすぼめて現れるなどサザエ、海蟹、潮吹きなどざらだ。夕方にはハナゲ周囲はすっかり紅色に染まる。海水浴場が西向きなので海に沈む夕日を観賞していれば、一幅の水彩画が自然に描けるだろう。
<道案内>
永宗船着場から蚕津島行バスに乗り、蚕津橋船着場から舞衣島行船舶に乗り換えればよい。(所要時間45分)
クンムリ海水浴場
クンムリ海水浴場は青い海末を背景にきれいな白砂浜が美しく広がっていて、海と松の情趣を一度に満喫できる所だ。海水浴場の松林は昼でも太陽の光が一筋も入ってこないほど鬱蒼としている。
クンムリ海水浴場のすぐ前には、実尾島という無人島がある。潮が引くと歩いて渡れるし、そこに行くとロビンソンクルーソーになったような気分を満喫できる。あまりにも静かすぎてまるで時間が止まってしまった世界に来ているような感じになる。海岸には自然に生まれ死んでいった牡蠣の残骸が、まるで雪のように真白く敷きつめられている。
国思峰・虎竜谷山
舞衣島は登山を楽しめる島だ。センクミ船着場から出発し光明村を過ぎて頂上に向かう登山道に入る。虎竜谷山(海抜244m)頂上を過ぎクルムダリを渡って、国思峰(230m)に向かう。下山道は国思峰から大舞衣海水浴場や大舞衣村に向かう。全体の所要時間は2時間余り。高くも険しくもなく家族で登頂するのに丁度よいだろう。頂上に立つと昇鳳島、紫月島などの隣の島々が見えるし、仁川国際空港の雄大な姿も一望できる。

 

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自由公園
自由公園は韓国最初の西欧式公園で、1897年に建てられたソウルのパゴダ公園(現ダップコル公園)よりも9年ほど早く建てられた。西洋人達が造成した公園なので当初は「万国公園」と呼ばれた。日帝は一時期ここを「西公園」と呼んだが、仁川上陸作戦を成功させたマッカーサー将軍の功績を記念する為に、彼の銅像を建ててから公園の名前も自由公園に変った。市街地の一部や港湾施設そして西海の海を一望できて、市民達の愛情を一身に受けている公園だ。春には桜祭りが開かれる。
<道案内>
仁川駅向い側の坂道を上がると北城洞チャイナタウンが現れ、ここを過ぎればよい。東仁川駅を利用する場合は、駅前の大韓書林の横の路地を300mほど上ると虹霓門が見えてくる。ここからが自由公園だ。
韓米修好100周年記念塔
1882年5月22日仁川近海を見下ろす花島鎮の丘で、全文14条の韓米修好通商条約が締結された。この条約は「隠遁の国」朝鮮が世界舞台に知られる契機となったものだ。1世紀の間盟邦として結束を固めた両国は、これを記念する為に去る92年自由公園に「韓米修好百周年記念塔」を建てた。外形は帆を形象化させた人間、自然、平和、自由を象徴する8個の塔で構成され、両国間の永遠なる友愛と紐帯を象徴している。記念塔が建てられたところは旧韓末ジョンストンの別荘があった所だ。
仁川文化院(有形文化財第17号)
仁川文化院は近代歴史の流れと軌跡を共にし、波乱万丈の生涯を送った建物だ。1901年6月に落成されたこの建物は、仁川に居住していたアメリカ、ドイツ、ロシア、日本人達の社交場である済物浦クラブとして建てられた。当時には社交室、図書室、ビリヤード場などがあった。1913年祖界制度が撤廃されながら日本在韓軍人会仁川連合会が入居し情芳閣が入ったし、開放後には米軍の将校クラブとして使用されたりもした。休戦後には我が国最初の公立博物館である仁川市立博物館が設立され、1989年に博物館が延寿区玉蓮洞に移転するまで市民達の愛情を一身に受けていた。下の階(32階)が上の階(85坪)より面積が小さい仮分数形態のレンガ風2階建て建物で、窓や屋根の形が西欧風だ。建築的特徴は別にないが、仁川地域の洋館がほとんど姿を消してしまう現状にあって、それだけでもよく保存されていてその価値が大きい。
<道案内>
自由公園内にある。
虹霓門
元々虹霓門とは上頭部が虹の形をした門をいうが、今は自由公園にある石門の固有名詞になってしまった。日帝強占期に中央洞、官洞などに日本居留民達が急速に増えることによって、万石洞方面に自分達の領域を拡張する為に繰り抜いた石門だ。1905年に工事を開始したが、予想外に巨大な岩石が多く、3年掛かりで完成した。岩磐の上に建てられた門だけに、100年が過ぎた今もびくともしていない。仁川港を一望できるだけでなく、爽やかな谷風が吹き市民達が足繁く通う所でもある。
<道案内>
自由公園入り口にある。
聖公会仁川内洞教会
英国の国教である聖公会が韓国に第一歩を踏み入れたのは1890年9月からだ。コルペ主教は仁川に勧告最初の聖公会教会である聖ミカエル教会を設立し宣教活動に入った。これが聖公会仁川内洞教会である。内洞教会は翌年の10月に隣りに仁川最初の西欧式病院である聖ルカ病院を建てた。当初の教会の建物は1891年9月30日に竣工したが韓国戦争の時に焼失し、現在の建物は1956年6月23日に竣工されたものである。
東仁川駅から自由公園方向に上がって行き、虹霓門を過ぎたらすぐに左手の路地に入ればよい。
仁川気象台
仁川は我が国最初の近代的観測所が建てられた本場だ。1904年3月、現中区庁裏の松鶴洞通り沿いにあった秀珍旅館に初めて気象事務所を開設し、翌年1月に現在の中区銭洞25番地、自由公園北側の済物浦高等学校の裏で統監府観測所として出発した。当時仁川観測所は国内13ヶ観雨所はもちろん満州地方の観測所まで管轄していた。また日本気象台やロンドングリニッヂ天文台と気象情報をやり取りし、1910年にはハレー水星が観測されたりもした。解放後中央観象台として発足したが、韓国動乱後仁川気象台として再編され今日に至っている。
<道案内>
東仁川から自由公園頂上まで上って行くと、右側に気象台が見えてくる。そこから約5分ほど歩けばよい。
栗木公園
現市立図書館の裏側に位置している栗木公園は、元々1902年日本人共同墓地として造成された。韓国動乱以後公園に造成されたが、1971年6月22日にプール場としてその後を変えた。大人用プール1個、子供用プール1個、脱衣室などを備えた栗木プール場は、70年代には仁川最高のプール場として人気を引いた。現在は12,776uの面積に六角亭、総合遊戯施設、体力鍛錬施設などを備えた公園として再造成された。
韓国キリスト教100周年記念塔
1885年4月5日の復活祭の朝、雨がしとしと降る仁川沖に一石の船が碇を下ろした。甲板の上では数人の若い西洋人達が、陸地に向かい跪いて祈祷をあげていた。彼らがこの地に改新教の種をまいた、あのアペンジェラー夫婦とアンダーウッド宣教師だった。宣教100年を記念する為に去る1986年3月30日、彼らが第一歩をしるした場所と推測されるパラダイスオリンポスホテル前の道路中央に、3宣教師の銅像をあしらった「韓国キリスト教100周年記念塔」が建立された。
<道案内>
仁川駅からオリンポスホテルを過ぎると右側に見える。(徒歩で10分以内)
朴斗星先生記念碑
松庵朴斗星先生は視覚障害者達の世宗大王だ。彼は漢城師範を卒業した後ソウル盲唖学校の前身である済生院盲唖部の教師として最初の一歩を踏み出し、視覚障害者達と因縁を結ぶことになった。彼は済生院時代にハングルの点字を研究し始め、長い研究の末1926年11月4日ようやくこの地に「訓民正音」を発布した。松庵先生は仁川永化小学校の校長を6年間歴任し、去る63年に76歳で他界するまで中区栗木洞の自宅で、自身が失明するほど視覚障害者達の為に献身した。先生が余生を送った栗木洞の家には記念碑が建てられていて、鶴翼洞にある仁川障害者福祉館には彼の業績を称えた「松庵記念館」が設立された。
<道案内>
東仁川駅から人形劇場前の道を過ぎ基督病院裏側に行くと、栗木子供公園がありその向い側にある。(徒歩で20分所要)
華電国地
華電国は1885年7月清国との電信条約協定により、我が国で最初に清国租界地に韓・清合作で建てられた電信局だ。その年の9月28日仁川−ソウル間に初の電信網が開通され、仁川から始まりソウルへ、ソウルから義州まで、そして義州から中国の奉天までと連結しながら、中国はもちろんのこと世界へと連結された。清国が日清戦争に負けて1894年に華電国は廃止された。 <道案内>
先ずは仁川駅や東仁川駅から中区庁行のバスに乗る。中区庁から自由フェチプ(刺し身屋)がある右側の道を100mほど行くとある。(中区庁から5分の距離)
鉄換局跡
現在の東仁川洞事務所跡は1892年から1900年まで大韓帝国の西洋式貨幣を製造した銭換局があった所だ。銭換局は当時6万ウォンの費用を投入し、1550坪の大地の上に凹字型レンガ造りの建物3棟が建てられ、5両銀貨など5種類の鋳貨を製造した。銭換局跡地は造幣庁がソウルのヨンサンに移転した後、暫くは鉄道監府として利用され1908年に仁川女子校に払い下げられたが、引続く火災で元来の建物の一部が焼失してしまった。その後新しい校舎が建てられることにより完全に撤去された。銭換局建物は建築史的側面において韓国政府初の西洋式建築だったという点で大きな意味がある。
<道案内>
東仁川駅から右側に見えるニューコアの建物にそって徒歩5分の距離にある。
(旧)韓国商業銀行仁川支店跡
商業銀行の前身である大韓天日銀行は、旧韓末に日本の経済的侵略に対抗して設立された最初の民族銀行だ。1899年5月10日に我が国で初めて仁川に第1号支店を開設した。商圏形成にともない1955年中央洞から京洞サリジェの尾根に移転した仁川支店は、最近本店が他銀行と合併することにより1999年その門を閉じた。

<道案内>
東仁川駅前の大通り坂を過ぎて十字路で左折すると愛観劇場が見える。そこから約200mほど入って行くと右側に位置している。(徒歩15分)
仁川郵便局
仁川の郵逓使は我が国の郵政史とその軌跡をともにする。甲申政変が起った年の1884年に郵政総局が設立されたし、その年の11月17日に郵政総局仁川分局が開院された。ソウルより先に郵便業務が開始されたことにより、仁川郵便局は事実上我が国郵政業務の起源ともいえる。現在の仁川郵便局は1923年に新築されたが、去る1982年仁川市有形文化財第8号に指定されれるほど、西洋と東洋の建築様式が絶妙に調和された貴重な文化遺産である。
東仁川駅向い側の大韓書林方向で仁川駅に行くバスに乗り、沓洞交差点を過ぎたところで下車すればよい。
沓洞聖堂
フランスパリ外邦宣教会所属ベレム神父が、初代本堂神父として赴任することにより沓洞の丘の上に設立された。1890年7月に聖堂建築定礎式を行い、1894年着工、1897年ゴシック様式の平屋建てが建てられた。現在の姿の沓洞聖堂は1933年に昔の聖堂の建物を保存しながら外観をレンガで積み上げて、1937年に完工した聖堂でロマネスク様式を帯びている。中央の塔上部と両側の小鉄塔の上部に尖塔ドームを載せた美しい外観を形成している。
<道案内>
東仁川駅から徒歩で15分の所にあるが、駅前大通りの坂道を下りて行くと十字路を過ぎた左側にある。
仁川監理署跡
監理は旧韓末に通商事務や租界に関する業務など、開港場内の全ての事務を管掌した。仁川に監理署が設置されたのは開港した年の1833年8月19日のことである。庁舎を建築した時期は確実ではないが、管理署ができた直後と推測される。監理署内には本庁以外に警察署と監獄があったが、白凡金九先生がここで一時獄中生活を送ったりもした。1895年に仁川開港裁判所が設置された後、1935年に仁川地方法院として再編された。監理署の建物が民間人に払下げられてから1988年に撤去された。
<道案内>
東仁川駅から新浦胴ロデオ通りを過ぎた右側に位置している。(徒歩15分)
(旧)日本58銀行仁川支店(市有形文化財第19号)
(旧)58銀行は日本大阪に本店を置く58銀行の仁川支店で、1892年7月に開店した。その後第3銀行など僅少銀行と合併し安田銀行に変った。1939年新築されたこの建物は光復後に朝興銀行仁川支店、大韓赤十字社京畿道支社などに使用されたりもした。現在中区飲食業組合が入居しているフレンチルネッサンス様式の2階建ての建物は、初期洋式建築の特徴をよく表しており、外観はレンガ組み構造物に石板上で構成されている。2階バルコニー形式が異国風の雰囲気を醸し出している。
<道案内>
いったん中区庁に行き、区庁舎を背にした前の通りの十字路を左折すればよい。
仁川日本第一銀行支店(市有形文化財第7号)
1883年11月日本の第一国立銀行釜山支店の仁川出張所として出発した。1909年中央銀行である韓国銀行が創立されて、第一銀行仁川支店に変った。ちょっと見ると昔の中央庁の建物に似たところがあるこの建物は、中央ドームを設置した石造単層の後期ルネッサンス洋式だ。解放後に調達庁仁川事務所など主人が変るたびに増築されたり改築されたりしながら、外観は少しずつ変形された基本骨格はそのまま維持されている。
<道案内>
中区庁を背にした前の通りの十字路を右折するとある。

 

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中央洞(チュンアンドン)
仁川の中心地という意味でも名付けられた。本来、旧韓末に区内面に属していた地域だが、開港とともにここに外国人達が大挙移住して来ることにより、各国の地界が生まれ開化の中心地となった。日帝時代には銀行や一般商店が密接していた仁川の繁華街だった。
海岸洞(ヘアンドン)
港洞と向い合っている海岸洞は元々海だった。埋め立ててできた海岸地域あるいは、埋め立て前に波が寄せる海岸線が形成されていた所だといって海岸洞という名前が付けられた。1・2街は1899年に埋め立てられて倉庫地域となり、3・4街は1909年に埋め立てられて外国人貿易商が多かった。
新浦洞(シンポドン)
沓洞聖堂向い側に在来市場がある新浦洞は、海に通じる川があったことから元来、純固有語でトジンゲまたはタクボといわれた。開港後生まれた言葉で、トジンゲを開浦洞と呼んできたが、「新しく繁栄する」という意味で新浦洞とした。埋め立て地が多い地域でもある。
松鶴洞(シンハクドン)
自由公園(鷹峰山)の虹霓南側の丘に松鶴洞がある。「山の峠に待つが鬱蒼として趣のある所」という意味でその名が付いた。仁川港が一望できる展望のよい所なので、開港初期に欧米系市民の居住地として、ドイツ人モーゼルの住宅や米国人デスラーの住宅、タウンジェントの住宅など豪華住宅や庭園があちらこちらに多かった。
官洞(クァンドン)
開港にともないこの一帯に各国の領事館や警察署などの「官庁が多く集まっていた所」という意味で付けられた名前である。しかし今はもう官庁といえるのは中区庁(昔の市庁の建物)しか残っていない。
港洞(ハンドン)
海に向い合っている港洞は船着場や旅客船埠頭、税関など仁川港の主要施設がある港の中心地域という意味で付けられた。まさにここが今日の仁川港を存在せしめた最初の開港場(済物浦港)だ。「広くて大きい」洞という意味もある。
沙洞(サドン)
昔から近隣に砂が多くて、砂の村という意味の砂村または沙村といった。新浦洞にくっついていて外航船員やその家族達が利用するのに便利な位置なので、宿泊業者が多く旅館街として知られたりもした。現在は保険会社の建物が多い。
新生洞(シンセンドン)
新生洞一帯は元来なにも無い海岸線地帯で名前がなかった。日本人達により沙洞や港洞のように埋め立てられた所で、郊外に看做され主に日本人達の墓地に使用された。1914年から仁川神社があったとして宮町と呼ばれたりもしたが、解放後新しくできた韓国人村といういみで新生洞という名前が付いた。
新興洞(シンフンドン)
新興洞は元々新昌洞(新浦洞の旧名)と花開洞を合せた地域だった。開港初期に日帝はこの地域を花町としたが、解放後新しく復興するという意味で新興洞と名前を変えた。1910年頃までにしても現在の仁川女商の南側の坂下mで海の水が入ってきた。
沓洞(タプドン)
田地が多く元来から田圃谷と呼ばれたが、沓里あるいは濯渓と呼ばれたりもした。開港当時にしてもここの中心地だった共同租界地の僻地で日本人達の墓地が多く寺もあった。仁川で福音が伝播された沓洞聖堂や宣教師達が設立した博文小学校や新興小学校がある。
善化洞(ソンファドン)
だいぶ前に船が出入りする埠頭があって、そのまま「埠頭」といったりもしたが別に洞の名前はなかった。1903年府内面が新しくできて始めて、花開洞という名前をもらった。日露戦争前後にこの一帯が遊郭が大きく反映したためだ。遊郭地帯が退き市場ができた後、日帝が善化洞と変えたがその理由は延長戦上にあるようだ。
桃源洞(トウォンドン)

現在の桃源洞には開港直後に日本人達が運営する桃の果樹園が丘陵にあった。その後この山を桃山と呼ぶようになったという。解放後桃源洞になったが、山の丘陵に弓場があり現在の消防署跡には火葬場や天然病患者を隔離し治療した徳生院があった。

栗木洞(ユルモクドン)
言葉通り栗の木が多い村という意味で栗の木谷と呼ばれた。1920年代には栗木洞は内洞とともに、仁川の有志が集まり住んだ瓦屋根の村で有名だた。1900年代初め米穀仲介業がここで起きた為に全国各地の商人達が集まってきて、1930年代まで大きく繁栄した。
柳洞(ユドン)
栗木洞と桃源洞の間にある柳洞は、糸柳が多い所という意味で柳洞と名前が付いた。京仁線が開通されると牛角里から分離され柳町となり、解放後柳洞と改称された。
京洞(キョンドン)
開港当時に各国の租界地に接していた韓国人居住地域だった。仁川府府内面時代には内里、外里、竜里地域だったが、解放後それぞれ内洞、京洞、竜洞と改称された。
竜洞(ヨンドン)
旧韓末時の仁川府府内面竜里地域である。解放後竜洞という名前に変った。この地域には大きな井戸があった。解放後にしてもこの水は市民達に大きな助けとなっていた。毎年竜洞大井戸祭が開かれる。昔から妓生がいた飲屋街として有名だった。
仁●洞(インヒョンドン)
昔、萩の木の丘地域という意味で畜?と呼ばれた。仁●とは仁川と畜●をあわせた言葉。現在東仁川駅と地下商店街が密接している商圏の中心地域である。
銭洞(チョンドン)
府内面の時には典里だったが、1892年我が国の貨幣を製造した銭換局がソウルからここに移ったことにより、お金を作るという意味の銭洞に変った。銭換局は現在の仁川女子校の場所にあった。
善隣洞(ソンリンドン)
善隣洞は開港後中国人達が集まり住んだ清館地域だった。日帝時代には支那町、弥生町と呼ばれたりもしたが、解放後善隣洞という名前になった。解放後中国人達と以前のように親善的な紐帯を強めようという意味が込められている。この一帯には今も華僑の2・3世代が住んでいる。
北城洞(プクソンドン)
自由公園の頂上を越えて仁川駅周辺と月尾島を埋め立てて連結させた地域だ。旧韓末までにしても漁船が多く出入りしていた北城浦があった。開港当時には外国人の出入りが頻繁だった外国租界だった。
松月洞(ソンウォルドン)
元来、村に松の木があまりにも多くて松谷あるいは松山と呼ばれた。開港当時には松月洞1街地域は韓国人居住地域であり、2・3街地域は外国人居住地だった。日帝時代にはこの村を松坂町と呼びもしたが、解放後「鷹峰山(現在自由公園)の林の間から見える月がひときわ明るかった」という浪漫的な意味で松月洞と呼ばれるようになった。
永宗島(ヨンジョンド)
昔、永宗島の名前は紫燕島だった。宋の国の「徐兢」が永宗島に立ち寄った時に、青空にツバメが群れをなして飛ぶ姿を見て「ツバメが多い島」という意味で紫燕島と呼んだという話が伝えられている。そのうち朝鮮朝孝宗4年(1654年)南陽州にある永州鎮をここ紫燕島に移すことにより、永宗島または永宗面で通るようになった。雲南洞、中山洞、雲西洞、雲北洞など全部で4つの行政区域に分かれた。
中山洞(チュンサンドン)
永宗島の東側にあり白雲山を中心に洞全体が山を囲んでいるといい、中山洞と呼ぶ。
雲南洞(ウンナンドン)・雲西洞(ウンソドン)・雲北洞(ウンポクドン)
永宗島の主峰である白雲山を中心にしてそれぞれ南側、西側、北側に位置しているとして、白雲山の「雲」という字をとり雲南洞、雲西洞、雲北洞とした。
竜遊島(ヨンユド)
島の形がまるで竜が海で泳いでいるように見えるといって、竜遊島という絶妙な名前をもらうことになったという。竜遊島を中心に大舞衣島、小舞衣島など3つの有人島と実尾島、八尾島など8つの舞衣島でなっている。現在徳橋洞、乙旺洞、南北洞、舞衣洞などの4つの洞に分かれている。
乙旺洞(ウルワンドン)
王子の墓があるというので「乙旺」という名前が付いた。乙は東側を意味し旺は太陽と月暈をさす。
南北洞(ナンプックドン)
高麗時代に竜遊島に幽閉された人々がこの村に集まり住んだが、軍事訓練の一つとして定期的に南北に分かれて競い合った。この時から南側を南里、北側を北里といった。
徳橋洞(ドッキョドン)
南北洞にある池で、竜馬が純池で鳴きながら昇天した後からは、徳を受けて暮らしが良くなったといい、ここに橋を掛けて竜馬橋と読んだ。その徳を受けた橋があったといって徳橋洞と呼ばれるようになった。
舞衣洞(ムイドン)
島の形がまるで武官服を着て舞を舞うようだといって舞衣島といった。あるいは仙女が天から下りてきて舞を舞ったので舞衣島と呼ばれたという説もある。

 

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